宮本雅弘|経歴書

 

コレクション製作者 所有者

宮本 雅弘(MIYAMOTO MASAHIRO )の略歴  

宮本は自分の職業は日本の世間で言う「写真家・カメラマン」欧米で言う「フォトグラファー」ではないと言っています。
宮本が過去に職業欄に記入したのは納税申告書でしたが、この欄は法人代表でした。法人を解散し独立してからは「写真撮影・執筆業」としていました。写真家協会にも写真エイジェント協会やアーティスト協会といった、人間によって形成されているどのような集団(団体)にも参加していません。
宮本が人間の集団を嫌う理由や、その人生に興味をお持ちの方は下記の宮本雅弘の著書を参照ください。

『風狂の旅人』河出書房新社 1994年刊(ノンフィクション・ノベル)
 反戦思想の日本画家の父親の影響下で15歳(小学5年生)の夏敗戦に遭遇、自己の身体で世界を見る決心から始まった世界放浪の経緯が具体的に綴られている。


『ステンドグラス・大衆信仰を輝きに凝縮させた職人たち』美術出版社 1985年刊
 ヨーロッパ全域のゴシック、ロマネスク寺院建築、「巡礼の道・Camino de Santiago」を踏破、
職人秘密結社「フランス全土を巡歴する職人たち」の結社集団内部を世界初めてのジャーナリストとして取材撮影、
宮本の原稿と写真で構成された大形本。
朝日新聞書評欄で巌谷国士(仏文)による1985年度の重要文書に選別される。
コピペで成り立つ日本の海外紹介書籍中では数少ない著者の現地取材(映像と文章)の書籍。
欧米人も書けなかった宮本独自のヨーロッパ文明(フランス革命と基督教、イスラム教)の解釈。


『図説 メキシコ』河出書房新社
メキシコ文化人類学の権威 ピーニャチャン博士の絶賛したメキシコ革命の本質をえぐりだす様な図説。メキシコ人類学博物館は世界に冠たる充実した内容。
我が国の大学の文化人類学科の大半の教授たちのマヤ、アステカ、インカ等のインディオ文明の研究はメキシコのDr,ピーニャチャンの薫陶と指導下のものである。
コレクションの所蔵にはメキシコを中心にグアテマラ・ホンジュラス(コパン遺跡)等、撮影未公開の取材済み映像多数存在する。

注)60ヵ国全ての取材撮影リストを記入すると冊子を必要とするので、ここでは市販(出版)された宮本の著書の署名、出版社名を年代順と、簡単な解説だけで列記します。

宮本の著作物、連載著作は「太陽」平凡社 「みずえ」美術出版 「マリクレール」中央公論 「朝日ジャーナル」
その他著名出版社の週刊、月刊、季刊誌などに多数存在しますが、宮本の言う民俗・民族学的に貴重な映像はその出版テーマの地域内の映像です。

 宮本はこのコレクションの全影像の取材撮影と記録作成等の諸費用(旅費滞在費等)を自分の稼いだ金銭で行っています。
著書があるため武蔵野美術大学を始めとして、国立、私立の大学からも招聘されましたが取材が偏向することを恐れ全部断りました。

海外取材撮影リスト

1964年5月
宮本の初めての海外取材撮影は国際情報社ラテンアメリカ取材特派員の肩書であった。
我が国の一般庶民に旅券(パスポート)が発給されたのは1964年(東京オリンピックが開催された年)からで、持ち出せる外貨は1,000ドル、写真機のフィルムは5本までと制限されていた。
日本人は敗戦の年から1964年まで旅券と外貨の交付を受けられるのは外交官、議員、大手新聞社の特派員、外貨を稼ぐ大手企業の社員や駐在員、そしてフルブライト留学生だけであった。一般庶民が申請すれば旅券(パスポート)が交付されてからでも外貨(ドル)と撮影フィルムの持ち出しには制限があり、大量の民俗学的影像を撮影は不可能であった。その取材撮影を可能にするのは『特派員』の肩書であった。
『メキシコと中米諸国』並びに『ブラジルと南米諸国』の二冊を完成させる契約で請け負った宮本が雑誌特派員になれたのは、ラテンアメリカ地区の特派員だったからである。
当時のラテンアメリカ諸国にはインディオ主義(INDEJENISUMO)が隆盛で、中南米の高原やアマゾンのジャングルは反米ゲリラの拠点だらけで外国人旅行者の生命の保証が無く雑誌の特派員のなり手が無かったからである。
 宮本はこの取材旅行で幾度も銃弾の下をかい潜り、幾度も拳銃を突き付けられたりと、帰国できたのが奇跡の取材であった。昨今話題になるイスラム圏に出没するフリージャーナリストの走りである。

宮本雅弘の略歴

1935年(昭和9年)12月15日、東京生まれ。

1945年8月 国民学校(小学校)5年の夏休みに敗戦に遭遇。

1945年9月 父親と共に上京(移動証明無し) 1946年二学期まで未登校。

1946年4月 都立南多摩高校に入学

1947年9月 都立高校2学年より武蔵野美術学校の2年に編入試験を受験し合格。
      写真専門校や暗室(ラボ)や撮影助手などの写真家としての経歴は無い。

 最終学歴は武蔵野美術大学卒なので美術団体に属し画家となるのが通常だが、卒業式にも出席せず(免状は郵送で受領)、ゼロ戦特攻隊生き残りと小型飛行機に乗って海上飛行をしていたノーテンキな若者だった。

 撮影経歴はスピグラ(4X5)を改造した航空カメラで小型機から魚群や潮の目の航空写真を撮っていただけだったが雑誌社提出の職業欄に航空写真家と記入した。

美校生時代にメキシコ革命から誕生した壁画運動に共鳴、アルハロ・シケイロス、エミリアーノ・サパタ、パンチョ・ビーリャなどの革命児に憧れた。メキシコに渡ってからシケイロス(壁画家・革命軍団指揮者・スペイン市民戦争では外人部隊の旅団指揮)と親友になる。

取材した契約特派員の取材機関は420日(約1年2ヶ月間)。
旅費・滞在費は出版社持ち。生命の危険を除けば為替相場(1ドル-360円)のため旅費だけは贅沢な旅だった。
取材地域(メキシコと中米、グアテマラ、ホンジュラス、エル・サルヴァトル、コスタ・リカ、ニカラグア、パナマの7ヵ国。
南米はコロンビア、ヴェネズエーラ、エクアドル、ペルー、ボリヴィア、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ、ブラジルの10ヵ国。計17ヵ国。)

 契約は宮本雅弘と飯山達雄との連名で行ったものだが、氏は戦時中は関東軍の調査機関であった文化人類学の研究機関に入り浸り、敗戦をニューギニヤで迎えている訳有り。
 訳有りと書くと聞こえが悪いが、この時代の兵役を終えた軍属で外地で敗戦を迎えた人物はすべて訳有りと考えてよい。
敗戦後の我が国は欧米の教育制度を実態なぞ無視して丸ごとコピー、各種専門学校を新制大学、各県師範学校を新制大学(駅弁大学)とし、義務教育を6・3制とした。
敗戦を終戦と言い換えた日本は駅弁大学を林立させ、民俗学を民族学と改名した。民族学人類学の名称を受け入れた連中は訳有り種族であって当然である。
さらに付け加えれば、日本(倭・大和)は文字(漢字)をコピーし、中国国家形態(租庸調)をコピーして成立したコピー国家である。
この国の史観はどの様な種族がコピーの主体だったかの解釈次第で如何様な説も成立する。

 海外取材撮影と出版掲載の記録

1964年5月、羽田国際空港をDC双発旅客機で、アメリカ合衆国(ハワイ、ロサンジェルス)経由でメキシコ入りし(一週間滞在)
メキシコよりグアテマラ、コスタ・リカ、ニカラグア、パナマを経てペルーからサンパウロ(ブラジル)。
飯山と宮本の別個での本格的取材撮影はブラジルのサンパウロから開始している。

 飯山氏は泉 靖一氏(東大文化人類学教授)団長のブラジル日系移民調査団に随行、
帰国後 帝国書院刊 写真集『ブラジル』の著者である。

 帝大卒業だろうが、大学教授、国会議員だろうが大会社の会長だろうが、この国は豊葦原のコピペ立国なのだと私が気づかされたのは死期の迫った近年である。

 コピペはもう古いと笑われそうだが、倭(僻地)を大和とし文字の無かった八十余州を唐来物(トウライブツ)を崇める日本(にっぽん)に仕立てた知恵者たちは、黒船と大砲を前にすると一斉に西欧チャンチャンコを羽織り、鹿鳴館の夜会を演出した。

 サンパウロでは自称帝大写真科の飯山のおっちゃんは世知に疎い宮本をサン・コスメのスラムの丘に残して取材費全額を持ってさっさと帰国し、某有名私大卒の編集局長と商談を済ませいずこかに消えていた。

 義父が人を介して帰国費用を送ってくれるまでの約3ヶ月間、私を助けてくれたのは沖縄県人の経営する安ペンションに働く貧しいインディオたちと、隣のBAR(バール)に集まる沖縄の二世三世たちであった。宮本(私)は沖縄の人達のために道義上命を捨てなければならない男である。

 南米6ヵ国(ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチン、チリ) の撮影を終え国際情報社より送金されてはいるはずの下半期取材費の受け取りにペルーの首都リマに立ち寄ったところ、私のラテンアメリカ取材費を持ち逃げされていたのだった。

 ペルーのリマより一時帰国(1965年5月)
1965年8月~10月(2ヶ月)撮影未完了のメキシコと中米6ヶ国(グアテマラ、ホンジュラス、コスタ・リカ、ニカラグア、パナマ)取材撮影。 
 上記の取材で『新しい世界』(国際情報社刊)シリーズの「メキシコと中米」「南アメリカ」の(写真と紀行文)二冊を完成した。

取材国 1、メキシコ 2、グアテマラ 3、エル・サルヴァトル 4、ホンジュラス 5、ニカラグア
    6、コスタリカ 7、パナマ 8、コロンビア 9、ヴェネズエーラ 10、エクアドル
    11、ペルー 12、ブラジル 13、ボリビア 14、パラグアイ 15、ウルグアイ
    16、チリ 17、アルゼンチン。(以上17ヶ国)

1965年 国際情報社からの入社要請を断り写真家として独立。

1966年7月1日より30日まで、共同通信社配信で「中南米の底辺」(写真、文、イラスト)でリマの暴動、戒厳令下の庶民。アンデスの農民たち。チチカカ湖の浮島。リオ・デジャネイロのスラム。ブラジリアの光と蔭。アマゾンの生活。パタゴニアと氷河の辺。パンパのガウチョ。etc, 30編を地方紙10新聞社に連載、担当外信部の工藤幸雄氏(のちのポーランド文学翻訳者)この「中南米の底辺」で"時の人"に選ばれる。

1966年6月より1970年3月まで、国際情報社社長 石原俊明氏の要請で『日本の美』シリーズ(全21巻)に参画、全都道府県を取材撮影。
シリーズの写真撮影、ルポルタージュ取材撮影。

1970年2月より7月までヨーロッパを自主取材。(ベルリンにてワーゲンを購入、単独走行でフランス、オランダ、スイス、ベルギー、イギリス、スペイン、ポルトガル、イタリア、スイスを取材撮影)

1970年9月、(有)フォト・パックを創立、代表取締役に就任。法人設立の真の目的は映像と取材記録を合体した民俗学資料の作成と色彩による民俗学研究(新分野)を目論む。

1970年「遠い国、近い国」でペルー・チチカカ湖の浮島紹介。月刊『文芸春秋』文芸春秋社。

1970年11月、『太陽』スペイン特集に写真と紀行文を掲載。平凡社。

1971年4月よりフォト・パックのスタッフ3名と共に日本各地の産業、史跡、文化財等の取材(車両使用)を開始。

1971年 メキシコ、ペルー、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイ、アルゼンチン、チリ取材

1971年 オーストラリア、ニュージーランド、パプア・ニューギニア取材撮影。

1971年『オーストラリア』『ニュージーランド』写真取材 講談社出版研究所。
   オーストラリア、エアズ・ロック、ドッカーリヴァー、大陸横断鉄道、グレイトヴァリアリーフ(サンゴ礁)。
   ニュージーランド、ミルフォードサウンド、エグモンド山、ヒヨルド等の小型機による空撮。

1971年10月 ブリタニカ百科事典編集部員(USA・シカゴ)来社。約25点の写真を事典項目に使用。

1972年2月 復帰前の沖縄取材撮影。『山と渓谷』沖縄復帰特集、写真と文 山と渓谷社

1972年8月~10月 インド、パキスタン、バングラディシュ、ネパール取材撮影、(寺西正明)。

1972年 フランス、スイス、オーストリア、ドイツ、オランダ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ポーランド
(1972年11月1日、泥酔者を避けて車輛を土手に激突転覆、右肩の腱を切断、病院で切開手術、全治2カ月を一ヶ月で病院から脱出、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ギリシャ、イタリア、フランス(パリ)までは右手のみで運転と取材撮影、1973年2月帰国。

1973年 アメリカ合衆国、車輛にて取材撮影。アリゾナ州、ミシシッピー州、テネシー州、ノースダコタ州、サウスダコタ州、ミズリー州、ユタ州、オレゴン州、ワイオミング州、コロラド州、テキサス州、etc,(寺西・川崎)

1974年2月 タイ(バンコック)、インドネシア(ジャカルタ、バリ島)、ネパール取材。
     ボカラよりトレッキングでアンナプルナ・サウスに向かう山中で吐血、胃潰瘍で緊急帰国、入院即手術。

1974年 玉川大学出版部『大百科事典』スポーツ項目の撮影開始。5月

1975年 スペイン取材、カタルーニャ、バスク、アンダルシーア、バレンシアetc,

1975年 世界文化フォトと写真の預託を開始。(1975・11/13)

1976年 パリを拠点として車輛でヨーロッパ諸国の職人結社(コンパニョナージュ)
    職人工房 中世並びに現代までのステンドグラスを取材開始。

1978年 銀座にて「シルクスクリーン展」開催。8月

1978年 マドリッド、エウレカ画廊にて「シルクスクリーン展」開催。

9月 シルクスクリーン作品2点、フランス国立図書館に収蔵される。

1978年 ポーランド連帯運動活発化。パリより車輛でポーランドへ2回の往復取材。

1978年 「ポーランドよ!」展開催。銀座 宮本雅弘(絵画)及び武田工作グループ共催。

1978年 スイス・オーヴァーラント取材撮影。

1979年 パリ、10 disu,AV,De Goberinに居住。車輛でヨーロッパ諸国のアーティスト、アルチザンの工房、アトリエを取材。

1981年 フランス政府より画家として滞在許可を取得。パリに正式に滞在。パリー東京間の往復生活始まる。

1981年5月26日 凶悪窃盗犯を捕らえ警視総監賞、善行賞受賞。
   午後3時頃。(新宿駅構内改札付近にて)
   警官の「ドロボー」の声に逃走する男を現認、身の危険をかえりみず、犯人にタックルし格闘のすえ、犯人を押さえ積極かつ果敢に協力、逮捕した。
   (善行表彰名簿 昭和56年度版 社団法人 日本善行会)

1981年 ポーランドの連帯運動崩壊の危機。グダニスクの連帯運動最後の大会を取材後、パリへ脱出。

1981年 世界文化社『素敵な旅』ラテン・アメリカ編の取材撮影のためにメキシコと南米諸国行。(ロスアンジェレス、マイアミ、ハイチ、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ペルー、エクアドール、パナマ)

1981年 週刊『朝日ジャーナル』「我ら地球市民ポーランド」写真・文 朝日新聞社。

1981年 週刊『朝日ジャーナル』「我ら地球市民ハンガリー」写真・文 朝日新聞社。

1981年 週刊『サンケイ』「危機が叫ばれるポーランド」写真・文 サンケイ新聞社。

1981年 月刊『世界画報』特集「ふだん着のポーランド」写真・文 国際情報社。

1982年 月刊『地上』ハンガリー「消え行く大平原」写真・文 家の光社。

1982年 『科学朝日』民族の顔「パナマのクーナ族」文・写真 朝日新聞社。

1983年 『マリ・クレール』創刊号より「創造の詩」(カラー写真・文 5P)、連載開始。
動く立体作家ローランサントン人形、ドライフラワー張り絵職人、モダン家具作りの仲間たち、ヂナンディエ(銅版民芸)陶芸人形(人間賛歌)、石彫り民話職人、ブルターニュの麻布、ビーズ刺繍、ヴァイオリン職人、クリスタル職人、木彫り職人、ガラス絵、カルトン人形(スペイン新民芸)、スペイン刺繍の村、陶芸工房(スペイン)、カンタブリア山中の刺繍、ステンドグラス工房、王朝文化パスマントリー、プロバンスの金箔職人、水車小屋のナイフ研ぎ、聖像職人家族(コンポステーラ)、エスパルト編み(スペイン)、アラバスト石彫、ムーラン陶芸(ブルボン王朝の故郷)「中世ヨーロッパのエマイユ(七宝)」Etc,

1983年6月~1985年12月までの2年6ヶ月間。連載「創造の詩」全30編と「エマイユ・美への誘い」 中央公論社。

1985年 季刊『みずゑ』連載「ヨーロッパ伝統工芸職人の世界」写真・文 美術出版社。
中世の七宝、シャンルヴェ。ルネッサンスのエマイユ。金箔刻印職人。etc,

1985年 『ステンドグラス』「大衆信仰を輝きに凝縮させた職人たち」宮本雅弘著
中世職人秘密結社、(コンパニョナージュ)と職人の結社組織。 美術出版社。
注)職人秘密結社の取材撮影はジャーナリストとして世界で初めて許可される。
朝日新聞年間書評で1985年度の問題の書に選ばれる。

1986年 国立民族学博物館 遍歴の職人(コンパニョナージュ)組織の取材写真を「宮本雅弘フォト・コレクション」として収蔵される。

1986年 『中央公論』連載「ヨーロッパの職人世界」 中央公論社。

1986年 『オーナメント2000』ハプスブルグ家の文様。宮本雅弘著 学習研究社。

1986年11月 季刊『装飾文様』原稿 宮本雅弘 学習研究社。

1986年4月29日-5月9日 北アフリカ、マリ共和国取材。首都バマコ。サハラ砂漠のトアグレ族。モプティ、河と渡しの人々。岩塩の板。(空撮)ニジェール河畔の集落。断崖のドゴン族集落、ドゴン族の生活、仮面の祭り(世界文化遺産)イスラムの建築と文様。
(空撮はバマコより双発機)ソンゴ(Songo)割礼の村。ピグニー、断崖の住居。

1987年 スペイン全県を車輛で取材。

1987年10月16日 中華人民共和国取材。成田-北京 紫王飯店泊。黄先生。天安門広場、紫禁城、城内建築、大和殿、獅子(青銅)兵馬俑、七宝類、全景 etc,

10月18日 ろこう橋、城塞、戦争記念館。北京、天壇公園(祈念殿)、王府井、繁華街。

19日 大棚欄と付近の長屋民家。民家の建築現場。大工道具、便所。屋台のギョウザ売り。

10月21日 北京-上海(寝台列車)車掌に中国人と間違えられる。YMCAの一室に宿泊。

博物館、青銅器類、釈迦石仏類。10月24,25日 杭州。28,29日 蘇州 寒山寺etc, 26,27日 南京 29,30日。西安 10月31日-11月3日。北京11月7日-成田帰国。(詳細な記録ノート)

1988年1月『マリ・クレール』新連載「エマイユの美」ヨーロッパ中世の美術、カラー見開き4P 写真・文 連載29回。
ヨーロッパ、ルネッサンスの七宝絵。 ルーブル(美)ルネッサンス(美)リモネージュ(美)ゲレ(美) 中央公論社。

1988年『ザ・ステータス』時差の旅「プロヴァンスのメルヘン」写真・文 プレジデント社。

1988年 新連載『文様・文化のシンボリズム』写真・文 プレジデント社。
ヨーロッパの紋章、文様に関連した美術装飾、建築文化史 1988年7月号-1989年5月号

1989年 パリーサンチャゴ・デ・コンポステーラ「サンチャゴへの道」取材。

1989年『ザ・ステータス』時差の旅・坩堝の大地・イベリア 写真・文 プレジデント社。

1992年『フランス金箔文様事』刻印 写真・文 宮本雅弘著 河出書房新社。

1994年『図説 スペインの歴史』 川成 洋・宮本雅弘 共著 河出書房新社。

1994年『風狂の旅人』伝記「ある無名画家の隠された青春」 宮本雅弘著 河出書房新社。

1995年『図説 ヨーロッパの職人たち』写真・文 宮本雅弘著 河出書房新社。

1997年『ドン・キホーテ賛歌』「独断と偏見で読むキホーテ」 宮本雅弘 文・写真 行路社。

1998年 国立民族学博物館の要請でフランス職人結社(コンパニョナージュ)を中心としたヨーロッパの各種職人写真記録作業。

1999年 メキシコ取材撮影。マヤ・アステカの遺跡。壁画とメキシコ革命。

2001年6月-8月 ニューヨーク取材撮影。メトロポリタン(美)マヤ、アステカ出土品。シンカ文明(黄金の仮面)ニューギニア木像。
    8月6日 メキシコ市 取材撮影。ティオティワカン、壁画 ヘスス病院。

 

2001年8月末帰国。9月の世界貿易センターの炎上崩壊するテレビ画面第一報を深夜に東京で見る。

2001年『GORIN-NO SHO』訳者 アグニシュカ 梅田 イラスト 宮本雅弘 DIAMOND BOOKS

2001年11月『図説 メキシコの歴史』宮本雅弘(編・著)写真・文 河出書房社。

2001年11月28日-12月8日、ニューヨーク、ツインタワービル崩壊跡。ハーレム、取材撮影。

2002年7月29日 成田-ソウル。明淑宅泊。民芸村。魚市場。東海海岸。

2002年8月8日 ソウル、ポーランド、ワルシャワ、ザコパネ取材撮影。

2002年8月14日 ワルシャワ、トルコ、イスタンブール、港風景、ブルーモスク、地下宮殿。
カッパドキア取材撮影。8月23日、ワルシャワ。ショパンの家、貴族の館。26日Tokyo。

2003年 国立民族学博物館「宮本雅弘フォト・コレクション」として2,500点の写真(ヨーロッパの職人と結社の取材写真が中心)収蔵される。
2003年12月 国立民族学博物館、宮本フォトコレクション計画の解消。。

注)上記の取材撮影リストは紙面の都合宮本の年代順の出版リストになってしまっています。

 他人の金であろうが自分の金だろうがギリシャのアクロポリスの写真は同じ、猫がカメラに当たってもシャッターが切れれば写真は写る。宮本は映像を大量に紛失され民事訴訟を起こした事もありましたが、日本人集団はコピーを犯罪とはまったく考えてもいない事を改めて理解しました。

 従いまして、今後も映像に記録開設をジョイントした映像はここでは公開いたしません。

取材撮影は取材地が決定した段階で(旅費撮影費が賄える撮影依頼が確定した段階)で取材地周辺の宮本の望む地区に入り込んで撮影してます。

 1971年 講談社出版研究所の依頼で講談社発刊の世界史シリーズのオーストラリア、ニュージーランド編の写真依頼。
契約内容はオーストラリア、ニュージーランド全土の交通費(レンタカー・航空写真撮影のための小型機のチャーター。エアズロック・そうこうする大陸横断鉄道・グレイトバリアリーフ、ニュージーランドのヒーヨルド、マウント・クック、植民地パプア・ニューギニア等で、取材機関は一カ月間。旅費・交通費・小型機・レンタカー料金は講談社もち。当方は出版本に使用した映像写真を講談社に納付すれば残りの写真フィルム使用自由の契約。

 パプア・ニューギニアは取材の一か月後に独立が予定されていた。

この取材撮影ではアボリジニーの宿泊地(ユーカリ林)に入り込み、焼き鏝を使ってのカンガルー狩り用具の文様いやコロボリー、平原(ブッシュ)の野火とうを撮影。

 パプア・ニューギニアではセピック河に小船をチャーターし、かつてロックヘラー二世が行方不明(付近は人食い族の存在が噂され食われたor殺されたの噂の流れている集落)で部落民と木刻の仮面、大木を刳り貫き、表面にワニの姿の彫刻されたドラムなどを撮影。

 本島の中心部にはマウント・ハーゲン(700メートルクラスの山岳)に入山、腰蓑だけで木製鋤きを使ってタロイモ畑を耕作する数人の裸の原住民、矢を射る男、きのぼりする男、子供を肩に、落花生の収穫をする女性と茅葺きの住居、半裸の家族一同 Etc,を撮影させて戴いた。
第二次大戦の末期、南太平洋地区(パプア、ポリネシア、メラネシア)に戦局挽回の作戦(牟田口師団によるポートモレスビー攻略作戦)の失敗で、数万の日本軍はシェピック河をラバウル基地に向かって撤退した。宮本は曾て一緒にとんだラバウル航空隊のパイロットから基地までたどり着くことができた撤退兵士の凄惨な状況を聞いていた。
 この撤退作戦で一万人以上の兵士が原住民の毒矢で命を失った。日本人にとってシェピック河流域は恐ろしい原住民の住むところとされていた。

 マウント・ハーゲンの山麓にはゴロカの町と空港があり、木造二階建てだが西欧風のホテルが一軒だけある。独立を間近にして、日本の大手新聞社の記者たち6・7名が宿泊していたが、取材に来ていながら誰ひとり外出したものが無く、全員が夜中まで食堂でアルコールを飲みながら大声で雑談していたらしい。私も宿泊はそのホテルだったので朝食の食堂で宿泊客たちが日本人と承知で聞こえよがしに「昨夜遅くまで大声で騒いでいた連中でよく眠れなかった。あれはどこの国の連中?」と皮肉られた。

 朝食の後で私は外出し、森陰から突然目の前に立ちはだかった半裸の男たちに行く手を遮られた。二人は私の瞳を覗き込みやがて手まねで写真を撮らせてとお願いすると快く撮らせてくれた。パプア・ニューギニアの山岳地帯にはシングシングと呼ぶ原住民のショーがある。

 バス会社のツアーコンダクターとせこい原住民が組んだ集団の殺し合いでの顔面化粧の見世物である。どちらの映像のキャプションと付け方とトリミングで内容がいかようにも替えられる。私はキャプションでも本質は替えられない映像をこの世に残したいと損得勘定の合わないこの取材撮影旅行を続けていたが難しい。

撮影者は撮影したい対象にレンズを向けピントを合わせる。

映像はそのシャッターを押す人の意図でこの世に残る。宮本は意図しないのに写し込まれてしまった事物の映像に民族学的価値があると考えています。

20万点のコレクション映像の取材撮影後半では、その写し込む方法論を様々な方法で模索しています。